川北町中島の「十一面観世音」像が建立されている場所は,「保元袋堤」と呼ばれる古い排除堤である.手取川の河流を直接制御する一番堤が破堤した場合,この「保元袋堤」で氾濫水を受け止め,本川の河原に戻す役割を果たしていた.
明治29年の洪水でも,この「保元袋堤」によって氾濫水の一部が集落への侵入を防いでいた(『手取川大水害復興五十年誌』,p58).また,手取川最大の水害と言われる昭和9年の水害の際にも,中島集落,ひいては水下の多くの集落への被害を軽減した.
高度成長期以降の耕地整理によって,古老達の反対を押し切って手取川扇状地上の多くの旧堤塘が撤去された中,中島の「保元袋堤」はほぼ原型を保ったまま残されている.
現在の手取川の堤防から見た「保元袋堤」.写真左の建物から右側の小さな森(ここに観世音がある)の間にある石組みの高まりが「保元袋堤」.写真右が上流側になる.
観世音の側から見た「保元袋堤」.倉庫の背後は昭和35年以降の治水計画により建設された現在の手取川の堤防.現在の堤防の築堤以前には,「保元袋堤」の延長はさらに長く,現在の手取川の河畔に及んでいた→詳細は解説ページで
「保元袋堤」の端部(手前の道路は中島集落の中を通る道路と県道鶴来・水島・美川線の三叉路).ここには,昭和9年の水害を防いだことを記念し,昭和34年に十一面観世音菩薩像が建立された.建立当時は白亜の立像だったが(→解説ページへ),現在は金属の柵がなされた台座のみが残っている.
もともとの立像はどこに行ったんでしょう??? 調べてみたいところです.
【台座に付けられていた碑文はまだ読みとれていません・・・】 |
2004.04.17探訪